2012年4月26日木曜日

地球人の歴史 15.海と経済の覇権(後編)


経済戦争

 ヨーロッパにとって、17世紀前半は分裂と動乱の時代だった。この時期にオランダが独走できたのは、どの国も「経済」をかえりみる余裕がなかったからだといっていい。オランダの企業家はフランスに自由に出入りし、敵国スペインとすら取り引きできたのである。

 ところが世紀の中頃になると、政治を安定させ経済に着目する国があらわれてきた。イングランドがそのひとつである。

 この国は人口・軍事力・産業のいずれでもとくに目立つ存在ではなかったが、特筆すべき点もあった。富裕層たる地主貴族が「農民からの年貢取り立て」から「土地の賃貸と投資」へシフトし利潤を追求していたこと、そして彼らが「議会」をつうじて国政に加わっていたことがそれである。彼らのうち反国王のグループが内戦に勝利し共和政を打ち立てると、「富のあり方」という観点から政策の洗い直しが行われた。そして、オランダがイングランド沖のニシンやイングランド産の半製品を仕上げた毛織物を売りつけてくる状態を、自国の富が吸いとられているとみなすにいたった。

 1651年、イングランドは「経済覇権国」へ挑戦状をたたきつけた。輸入を自国船か生産地の船によるものに限定し、オランダ船を締め出したのである。

 翌年から両国間の海上で戦闘がはじまると、海の覇者であるはずのオランダが意外にも苦戦の連続となった。武装商船と乗組員の技量に頼るオランダに対し、イングランドは大砲を多数積んだ戦艦をそろえ、プロの士官を育て、艦隊戦術を練りあげていたからである。ブリテン島そのものが通商路をふさいでいることもあって、2年間の戦争中に1200隻ものオランダ船が拿捕される事態となった。

 その後イングランドでは王政が復活したが、オランダへの敵対政策は変わらなかった。そればかりか、欧州の覇権をうかがっていた軍事大国フランスも、オランダがもちこむ品々に保護関税を課して排除しはじめた。オランダもフランス産品の禁輸で応じ、事態は「経済戦争」の様相を呈してきた。

 1672年、オランダそのものを抹殺するため、9万のフランス軍が侵攻をはじめた。イングランドもこれに便乗して参戦した。

 オランダ存亡の危機を救ったのは、新たな指導者ウィレムであった。巧みな外交によって包囲網をつくり、フランスを封じ込めたのである。イングランドに対しては、1688年に1万5000の兵を率いて上陸作戦を敢行、王位を乗っ取って反フランス同盟に参加させるという離れ業を演じてのけた。


黒い積み荷

 オランダは奇跡的に生きのびた。しかし安全保障の面で弱さをさらけ出し、英仏をはじめとする「保護主義」によって産業の競争力もかげりつつあった。

 イングランドにとっても、いきなりフランスとの戦争に引きずりこまれたことは試練だった。ただし、1692年にフランス艦隊を粉砕し、1707年にはスコットランドを合併して(大ブリテン連合王国:以後「イギリス」とよぶことにする)島国となることでひとまず安全を確保できた。非常事態のもと国王と地主貴族たちの間で妥協がなり、議会と内閣(大臣の会議)が政治を主導するようになって国内も安定した。

 以後、イギリスとフランスは互いをライバルとみなし、産業の育成と貿易の拡大を競うことになる。もっとも、どちらも欧州におけるオランダの地位を奪うほどの力はまだなかったから、より進出が容易な方面に目をつけた。両国の西にひろがる大西洋である。

 17世紀中頃まで、この海域における英仏のおもな事業は「海賊」だった。中南米の銀を運ぶスペイン船を襲っていたのである。その後、スペインが放置していたカリブ海の小島にのりこみ、サトウキビをはじめとする熱帯産品をつくるようになった。

カリブ海の動向(17世紀後半)

スペインにとってカリブ海は、メキシコおよびペルーからの銀輸送船団が通過する最重要海域であった。しかし、スペインの軍事力の衰えが著しくなった1620年代頃から、イギリス、フランス、オランダの進出が激しくなった。その先陣をつとめたのは海賊であったが、小島嶼への入植も同時に進められた。1655年には、イギリスの遠征隊がジャマイカを占領している。17世紀末には、キューバとエスパニョーラ島の東半、プエルトリコを除くほとんどの島が三国によって占有された。
当初、この地域の主産物はタバコであったが、のちに砂糖がとってかわった。熱帯植民地での砂糖生産はポルトガルが先駆者であり、15世紀にはアゾレス諸島やマデイラ諸島、16世紀にはブラジルを産地として開発し� �。17世紀になると、その富に目をつけたオランダがブラジル進出をはかるが、最終的に撃退された。ただ、オランダ領のキュラソーなどにサトウキビ農園が導入され、英仏もこれにならった。砂糖は甘味料の乏しいヨーロッパでは需要が高く、利潤も大きい第一級の国際商品であった。

 問題は、労働力の確保だった。先住民もヨーロッパからの出稼ぎも不足する中では、気候が似ている熱帯アフリカから奴隷を買うほかなかった。

 砂糖人気とともに奴隷の需要も増し、その売買自体が重要視されるようになった。西アフリカのギニア湾沿岸では、ダホメーやアシャンティといった国がヨーロッパ製の火器で勢力をひろげ、捕虜を英・仏の商人に売ってもうけるようになった。

 いわゆる「三角貿易」は、こうして成立した。英・仏の商人は自国産の衣類や武器・火薬をもってアフリカ西岸へ向かう。ここで買った奴隷は船につめこまれ、カリブ海の農園に売られる。そしてこの地の砂糖が英・仏に運ばれ、自国で消費されたほかヨーロッパ諸国に再輸出された。

 多数の人間を「商品」として売り買いするこの貿易の影響は大きかった。アフリカ西岸の国々は奴隷狩りのために互いに争い、17〜19世紀初頭までの間に1000万以上もの人々が売りとばされたことで社会が弱体化した。カリブ海の島々では、人口の大多数を黒人奴隷が占める特異な植民地社会がつくられた。その上にイギリスとフランスはドル箱路線をひらき、貿易大国への礎を築いたのだった。


反乱

 やはりスペインが手をつけていなかったメキシコ以北の北アメリカ大陸には、17世紀中にイギリスが東海岸に、フランスがカナダとミシシッピ川流域に植民地を築いている。

 ただし、ここは狩猟採集民が散在するだけの辺境で、貴金属や熱帯産品もない。そのため、先住の農耕民から徴税するとか、鉱山やサトウキビ農園で働かせるといったかたちの経営はできなかった。そうしたわけでこの地は、イギリスにとっては国を捨てた宗教的マイノリティの居留地、フランスにとっては先住民から毛皮を手に入れるための拠点、といった程度の存在だった。

 ただし、イギリスはしだいに北米を「市場」として意識するようになった。貧民が未開地を開いて自活するようになれば、彼らに商品を売りこめるからである。イギリスだけでなく他国(ドイツなど)の移民や黒人奴隷も送って開発を進めた結果、18世紀中頃には植民地の人口は200万に達した。

 ぱっとしなかったイギリスの商工業を成長させた原動力が、カリブ海と北米を両輪とする大西洋貿易だったことは疑いない。実際、イギリスとこれら植民地との貿易量は18世紀中に23倍という驚異的な伸びを示し、イギリスの全輸出額に占める割合は5割に達したのである。

18世紀イギリスの大西洋貿易

三角貿易とは、2点間では収支に不均衡が生じるとき、3点でバランスをとることで貿易を拡大させる手法をいう。英仏・アフリカ・カリブ海のそれが代表的だが、イギリスの場合は本国・北米植民地・カリブ海という三角も有していたことが特徴である。イギリスが(フランスと異なり)北米への植民に力を入れたのは、本国市場の狭さという弱点の裏返しであった。しかし、(結果論ではあるが)「大西洋に賭けた」ことは海運業や貿易業の発展をうながし、のちの世界貿易における覇権を準備したといえる。
ただし、こうした貿易システムは規制によって維持されているという側面があった。たとえば、北米植民地は輸入を本国から輸送される物品に制限され、現金払いを要求されていた。こ� ��したことがやがて植民地人の不満を高めることになる。
なお、イギリスはスペインに対する戦勝の結果、1713年にスペイン領中南米に一定量の奴隷を供給する権利を獲得し、これを隠れ蓑にした密輸も行って利益をあげている。また、1703年ポルトガルと通商条約を結んで毛織物などの輸出を伸ばし、17世紀末から採掘が進んでいたブラジル産の金を得たことは、イギリスの通貨事情を好転させた。


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 勃興する「海上帝国」の一翼を担ったことで、北米植民地も豊かになった。造船業がイギリス船の1/3を生産するほどに成長したのがその一例である。とはいえ、「植民地はあくまで本国の経済に奉仕するもの」というのがイギリス政府のスタンスだった。そのため、特定の品目は本国の商人と船を介さなければ売買できず、本国のライバルになりうる産業(毛織物や製鉄)は抑えつけられるといった具合に、植民地には様々な縛りが課せられていた。

 もっとも、フランスという脅威がある中では、本国と植民地の関係は持ちつ持たれつといったところだった。しかし、1763年にフランスが北米から手をひくと情勢は一変した。安心した本国が植民地への締めつけを強め、財政負担も求めてきたのである。植民地で本国を「足かせ」とみる声が増すのも自然の流れだった。1775年に武力衝突が発生、翌年には17の北米植民地のうち13が独立を宣言するにいたった。

 ことは単なる反乱にとどまらなかった。復讐をねらうフランスが反乱軍を支援し、武器弾薬と陸海軍を送りこんできたのである。他の欧州諸国も海上封鎖を嫌って反イギリスで歩調をそろえた。

 孤立したイギリスは、鎮圧を断念せざるをえなかった。1783年に独立を認められた13植民地は、「アメリカ合衆国」なる連邦制の共和国を形成した。


財政・金融・技術

 平時には貿易のシェアを競い、また2年に1年の割合で戦火を交えながら、英仏は1世紀もの間抗争を続けていた。イギリスは国力で大きく劣り、先にカネが続かなくなっても不思議ではなかった。生命線である海軍力の優位を保つために政府はしばしば歳入の150%以上の歳出を強いられたし、民間でも商業の拡大にともなって貨幣需要は増す一方だった。にもかかわらず、本国にも植民地にも金銀の産地はなく、貿易黒字も大きくなかったのである。

 こうしたときの常套手段は、貨幣の質を落として量を増やすというものだった。しかし、経済に敏感な地主が支配するイギリスではこのようなやり方は好まれず、かわりに財政・金融を改革する方向に進んだのだった。

 その際にものをいったのが、経済先進国オランダとの関係だった。まずウィレムの即位とともに議会による財政管理のノウハウが移植され、長期・低利の国債が発行できるようになった。イギリスを信用できるとみたオランダ人投資家がその多く(一時期3/7に達した)を買い集め、結果として財政を支えることになる。

 また、国際金融センターのアムステルダムとの結びつきが強まり、「為替手形」で貿易の大部分を決済できるようになった。手形は国内でも普及し、商人による製造業への融資の手段としても用いられた。

18世紀前半のロンドン、アムステルダムの為替関係

一般にオランダは17世紀末に覇権から転落したとされるが、金融においては長い間指導的な地位にあった。たとえば18世紀前半、ロンドンは西欧の一部としか為替関係を持っていなかったのに対し、アムステルダムのそれは全欧州からロシア・トルコにまで及んでいる。
17世紀末〜18世紀前半におけるイギリスの対ヨーロッパ貿易も、このオランダのネットワークを利用して行われた。この時期、イギリスは西欧に対して黒字(穀物、毛織物等の輸出による)、北欧・東欧に対して赤字(木材、鉄等の輸入による)を有していた。ところが、赤字地域への送金はほとんどなく、黒字地域のオランダへの送金(それも小規模の)が大部分を占める。これは、イギリス商人がアムステ� �ダム宛手形で赤字地域の決済を行っていたことを意味する。もし赤字を現金で決済していたならば、「貴金属の市場価格と各国間の為替相場は急騰急落をくりかえし…イギリスの貨幣制度は大混乱に見舞われていたであろう」(楊枝嗣郎)。
フランスに関する同様の統計は見たことがないが、人口と資源に恵まれていたことから対外貿易はイギリスほど死活的な問題とはいえず、むしろ広大で多様な国内の統合が課題だったとされる。このことが、ペーパー(為替手形)ではなく、国内商業に必要な銀への依存をもたらした、とはウォーラーステインの指摘である。

 さらに重要な役割を果たしたのが、新たなタイプの銀行業だった。

 その特徴は、顧客の金銀を保管するサービスにある。預金はいつでも引き出せることが保障されていたので、人々は預かり証である「銀行券」を現金のかわりとして用いた。こうして引き出しの頻度が減ると、銀行は預かったカネの大部分を貸し出しにまわすようになった。貸し出されたカネはどこかに預けられ、また貸し出されるから、最終的には金銀量の数倍もの「預金通貨」が創造されることになる。

 もっとも、過度の貸付によって預金引き出しに応じられなくなる銀行もあり、信用を維持する装置が必要となった。それが、政府に貸付を行うため大商人たちが設立したメガバンク、「イングランド銀行」だった。特権的地位と豊富な現金準備からその銀行券は正貨と同等に扱われ、一般の銀行もイングランド銀行券を預かり支払うことでその信用力に依存するようになった。

 こうしてイギリスは、「取引ニーズに応じてカネを生みだす」画期的なシステムをつくりあげた。商工業には十分な資金が供給され、その成長にともなって税収も増えた(1世紀間に約4倍)。また、富を蓄えた地主や資産家が国債を買うようになり、オランダが敵に回った北米反乱の際にも国内で戦費を調達できたのである。

 とはいえ、北米植民地の喪失は最大級の危機だった。18世紀中ごろのイギリスの産業のうち、競争力があるのは地主による改良が進んでいた農業くらいで、商工業は植民地との貿易に依存していたからである。この独占市場が失われれば大不況がおこり、金融システムを支える「貸したカネは返ってくる」という信用が崩壊するおそれがあった。

 ところが、またもやイギリスは持ちこたえた。合衆国の産業が独り立ちにほど遠かったためイギリス商人は貿易をすぐに再開でき、ほとんど打撃を受けずにすんだのである。しかも長年の保護政策が実り、製造業の分野では世界で勝負できる待望の成長エンジンが動き出していた。それが、「綿織物業」である。

 もともと、綿織物は綿花(ワタの繊維)を原料とするインド特産の衣類だった。17世紀にヨーロッパにもたらされると、耐久性、保温・保湿性、美しい色彩によりたちまち人気を博した。毛織物業者の突きあげで英仏とも輸入が制限されたものの、この魅力的な商品への需要は国内外で大きく、18世紀初頭から両国で国産化がすすめられた。

 その際、国内市場に恵まれていたフランスに対し、人口が少ないイギリスは輸出拡大を視野に入れなくてはならなかった。そうなると、安く良質なインド産綿布との競争は避けてとおれない。

 この難問を解決したのは「技術革新」、すなわち機械による大量生産とコストダウンだった。織布に用いる飛び杼(とびひ)は効率を2〜3倍にし、綿糸をつくる多軸紡績機は16個の糸車を動かした。そしてイギリスの強み、すなわち零細な業者を支える金融システムと、原料の産地(北米南部とカリブ海)や海外市場に連なる通商路は、この新興産業の将来を約束した。1780年代、イギリス綿織物は欧州諸国やアメリカでも人気の商品となっていた。


破産、そして革命へ

 フランスはといえば、欧州最大の人口、農業・工業生産力を持ち、そのいずれも増え続けていた。しかし、海ではイギリスと、陸ではイギリスの同盟国と戦わなければならず、政府の財政はいつも火の車だった。1613年以来議会を1回も開かず、国王と一握りの側近が政治を牛耳っていたために、経済へのアプローチを誤ることもしばしばだった。「貨幣の改悪」という安易な手法で債務累積と貴金属不足を乗り切ろうとしたことはその最たるものであり、政府は国内外で信用を失い金利は高騰した。

 1716年、ジョン・ローという銀行家(山師?)が財政・金融の改革に乗りだした。その手法は、イギリスのそれよりラディカルなものだった。まず、北米で事業を営むミシシッピ会社をたちあげる。この会社が、ローの銀行から紙幣を借りて市中の国債を買い集める。そのかわりに株式を売り出して紙幣を回収、銀行にもどす。株人気によって紙幣への需要を生みだし、政府の債務も整理しようという算段である。

 誇大宣伝によってミシシッピ株は大ブームを巻きおこし、株価は30倍にはねあがった。紙幣はどんどん刷られて景気はよくなり、政府も借金返済が楽になった。すべてがうまくいった。

 1720年、「バブル」はついにはじけた。ローの銀行に現金がないこと、会社が儲かっていないことがばれたのである。

 後遺症はとてつもなかった。人々は「ペーパーマネー」を信用しなくなった。しかし貴金属だけでは高まり続ける資金需要を満たせないから、経済成長でイギリスに遅れをとるようになった。政府はあいかわらず高い利子でカネを借りねばならず、その返済額は歳出の半分に達した。


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 フランスは1786年、なんと宿敵イギリスとの間に通商条約を結んだ。貿易量を増やし、税収の足しにすることが目的だった。甘やかされてきたフランスの製造業はイギリス製品に押しまくられ、たちまち危機におちいった。フランス政府はみずからの財政破綻によって、「産業の保護育成」という役目を放棄してしまったのだった。

 そして3年後、革命が勃発した。

 発端は、財政再建を討議するために議会が176年ぶり(!)に開かれ、これを機に地主や実業家たちが政治参加を求めたことだった。ところが、これがカオスの扉を開いたかたちになった。下層民たちが便乗し、暴動とテロの嵐が吹き荒れたのである。そのうち彼らに迎合する急進派が共和政をうち立て、国王の首をはねるにいたった。

 騒乱が及ぶのを防ぐため、イギリスをはじめとする欧州諸国はフランスを包囲攻撃した。共和国政府は非常事態を宣言、反対派を片っぱしから処刑する一方、民衆を徴兵して防戦につとめた。

 戦線の安定とともに急進派は政府から排除されたが、政情不安は相変わらずだった。一部の指導者は強いリーダーを欲し、民衆に人気のあったナポレオン・ボナパルトという軍人に白羽の矢を立てた。1799年、ナポレオンは政権を奪取し、5年後には皇帝を名のった。


海の覇者VS陸の覇者

 フランスはようやく一息ついたが、革命で失ったものは大きかった。農地は荒廃し、インフラは破壊された。多くの地主や資産家が血祭りにあげられ、数十万にのぼる労働力が動乱で死んだり、兵士として徴用されていた。革命政府が発行した紙幣の価値は1/3000(!)にまで下落したあげくに破産が宣言された。海軍は崩壊し大西洋貿易はストップ、半世紀前はイギリスの2倍だった工業生産はいまや追い抜かれていた。

 これに対しナポレオンは、イギリスに侵攻して長年の抗争に終止符を打つことが先決と考えた。しかし海軍力の差は歴然で、幅わずか34kmのドーバー海峡を渡ることすらできなかった。イギリスの同盟国をたたく方針に転じたナポレオンは陸上では天才ぶりを発揮、わずか2年でヨーロッパの主要部をすべて属国か同盟国とした。ついに、欧州がひとつの「帝国」にまとめられたのである。

ナポレオンの帝国

革命期に周辺諸国からの侵攻を受けたフランスは、徴兵により巨大陸軍をつくりあげて反撃に転じ、ベルギーやライン川西岸を併合した。ナポレオンが皇帝の座についた1804年以後、その拡大は頂点に達した。すなわち、1805年にオーストリアを、1806〜07年にプロイセンを撃破して領土を大幅に広げ、さらにヨーロッパ全土に一連の衛星国群をつくりあげたのである。9世紀初頭のカール大帝、16世紀のハプスブルク家をしのぐ巨大権力体であった。

 その上でナポレオンは、服属させた諸国にイギリスとの貿易禁止を命じた。イギリスの総輸出量の1/3を引き受けている欧州市場を閉ざしたのである。

 「大陸封鎖」によって、イギリスはたしかに打撃を受けた。しかし、「海上封鎖」を受けたフランスも苦しんでいた。海外からの原材料(綿花など)が途絶え、フランスの製造業はせっかくのチャンスを生かせなかった。砂糖、タバコ、コーヒーなどの熱帯産品、中南米の金銀、そしてイギリス産綿織物を欲する諸国(フランスも!)は密貿易にいそしみ、大陸封鎖は穴だらけになった。

 勝敗を決したのは、やはり財政と金融だった。最強の敵にうち勝つためにイギリスは増税を重ね、イングランド銀行券の換金もたびたび停止したが、大西洋貿易は絶好調だったから信用は揺るがなかった。一方、フランスは服属諸国からの兵力と費用の供出、すなわち「収奪」によらなければ巨大な軍を維持できなかった。離反者がでるのは時間の問題だった。

 案の定、スペインが反旗をひるがえし、ロシアも大陸システムから離脱した。両戦線でフランス軍が敗れるとドイツ諸邦がいっせいに決起し、「帝国」は総崩れとなった。1815年、ナポレオンは大西洋の孤島に流された。


勝者の構造改革

 ナポレオン没落後、欧州諸国の代表がウィーンに会し、戦後処理を行った。王家と領土が旧に復したフランスは欧州の協調体制に組み入れられた。イギリスはもはや大陸から脅かされることはなく、地中海や大西洋、インド洋に数々の拠点を得たことで海の支配も盤石となった。

1815年以降のヨーロッパ

ウィーン会議(1814〜15)は、ヨーロッパのほとんどの国が参加して国際秩序を規定したという点で特筆される。その特徴は、5大国(イギリス、フランス、オーストリア、プロイセン、ロシア)による勢力均衡と革命運動の防止にある。この体制は以後30年以上にわたって(見方によっては半世紀も)ヨーロッパに安定をもたらしたが、いくつかの火種も抱えていた。ドイツ統一問題はそのひとつである。ドイツはこの会議でも分裂を克服できず、30余の国々からなるゆるやかな「ドイツ連邦」を形成するにとどまった。統一をのぞむ人々の間では、北東のプロイセンとハプスブルク家のオーストリアのどちらを中心とするかで議論が続いた。

 ここにいたり、イギリスは長年の戦時体制を解き、経済の安定を第一とする政策に転換することができた。歳出は、歳入にみあう規模にするため大なたをふるわれた。イングランド銀行券と法定通貨である金との交換も再開された。「政府は破産しない」「最後は金で決済できる」という信頼は、ロンドンに金融センターとしての、ポンドに国際通貨としての地位をもたらすことになる。

 産業と貿易をめぐる環境も様変わりしていた。

 綿工業の技術革新は、戦争中もとどまることを知らなかった。石炭を燃やして動力を得る「蒸気機関」によって、ついに人力・自然力の限界まで乗り越えたのである。手作業と比べ織布で20倍、紡績で200倍にまで生産性が向上し、イギリスは工業製品の雄たる衣料において比類なき競争力を手に入れた。実際、綿織物生産高の3分の2以上が海外に向けられ、輸出額は1815年前後には20年前の24倍となった。鉄、機械、石炭の需要もつられて急増し、これらの生産にも蒸気機関が取り入れられた。

 ただし、新たな問題も生じていた。綿製品の大量生産は供給過剰をまねき、さらなる輸出拡大が急務となった。工業原料、とくに綿花を安定的に確保する必要も生じた。経済成長にともなって人口は25年間で38%増(1815年:1113万人)となり、その多くが都市に集中したから、食料生産が追いつかなくなった。

 これらへの処方箋として1820年代から政府内で議論されたのが、「自由貿易」だった。これまでの貿易を特徴づけていた「保護」と「規制」を取り除き、世界中から安い原材料と食料を受け入れるのである。カネを得た国々はイギリスの綿製品を買うだろうから、その生産は伸び、雇用が確保され、投資の機会も増えるだろう、という考えである。

 改革はすんなりとは進まなかった。地主の農業経営が痛手をこうむるとみられたからである。しかし、エリートの仲間入りをしていた貿易商や銀行家は自由貿易を支持したし、輸出拡大を望む製造業者の声も無視できなかった。1850年までに、貿易・海運・金融についての規制や独占はほぼ取りはらわれた。


世界の改造

 19世紀中頃、イギリスは全世界の綿製品と鉄の半分を生産していた。これらだけでなく、世界中の一次産品がイギリスの貿易商社をとおして各地に売りさばかれた。商品を運ぶのは全世界の船舶の3割を擁する海運業であり、速力で帆船の2倍、大きさで20倍にもおよぶ「蒸気船」も就航しはじめていた。ロンドン金融街には手形とカネが集中し、世界中の貿易決済と資金調達を一手にとりしきった。

 こうした事実は、多くの国々が自由貿易という「ゲームのルール」を受け入れ、食料や原材料を売り、安くて質の良い工業製品を買う選択をしたことを意味している。

 このような地域にはまず、イギリスからの移民がつくった植民地があった。北米のカナダ、18世紀末から植民がはじまった南太平洋のオーストラリア、ニュージーランドがその代表である。これらは(北米反乱の教訓から)政治・経済両面で幅広い自治を与えられたが、人口が少なく産業も未熟だったから、とりあえずは木材・羊毛・金などの供給地となるほかなかった。

 大西洋の諸地域も、続々と自由貿易グループに参入した。重要性を失った奴隷貿易をイギリスが切り捨てたため、西アフリカの諸国は奴隷を地元で用いてヤシ油などを輸出する方向へシフトしはじめた。そしてスペインとポルトガルの植民地だった中南米は、自由貿易に向けた政治システムの変更、すなわち「独立」へと向かうことになった。

 中南米では長い間、衰弱した本国に貿易を統制されていることへの反感が強かった。しかし、植民地のエリート層(かつての入植者の子孫)は独力で多数の下層民(混血民、先住民など)を抑えていくことに自信を持てず、独立に踏み切れずにいた。


軍のBASはいくらですか

 転機は、ナポレオンのイベリア半島侵入(1807年)により本国との連絡が途絶え、かわりにイギリスが接触してきたことである。戦後に本国が旧体制の復活をはかったとき、「経済大国」の後ろ盾を得ていたエリートたちが躊躇する理由はなかった。独立した諸国は次々にイギリスと通商条約を結び、人口3000万規模の市場を提供する一方、鉱産物(銀・銅・硝石など)・農作物(小麦・砂糖・綿花・コーヒーなど)の輸出にはげむことになる。

中南米諸国(1830年頃)

スペインおよびポルトガル領であった中南米の独立は、18世紀から強められた本国の政治的・経済的締めつけに植民地人が反発しておこされたものである。つまり、合衆国の独立と同様の構図であり、実際その影響を強く受けている。ただし、ヨーロッパ移民のみのコミュニティを母体とした合衆国に対し、中南米では現地生まれの白人が人口の8割を占める混血民・先住民・黒人に対し支配者として臨んでいた点が事態を複雑にしていた。すなわち、本国VS植民地エリートという図式に加え、植民地エリートVS被支配民という図式が存在していたのである(実際、下層民の反乱は頻発していた)。結局は、ナポレオン戦争期にイギリスと同盟し自信をつけたエリート層の主導で独立がなされ、植民地の社会構� ��は温存された。

 イギリス主導の自由貿易が国際取引を激増させ、世界経済を好況へと導き、これに接続した国々に利益をもたらしたことはたしかである。ただし、これらの諸国はイギリスの工業製品を輸入し、イギリスの商社・船会社・保険会社を使って一次産品を輸出したから、対イギリスの経常収支は赤字になるのがつねだった。外貨や開発資金の調達を仕切るのはロンドン金融街であり、政府も経済界もその意向に左右されるようになる。

 長期的にも、様々な問題が生じた。換金作物の生産は農地面積と人手と天候に依存し、工業部門のような大量生産やコストダウンはおこりえない。しかも、生産物は付加価値が小さく国際競争も激しい。つまり、生産量・輸出量・収益ともいずれは頭打ちになる。一握りの農園主に土地と権力が集中している中南米のような地域では、小作人や農業労働者にツケがまわされるのは避けられなかった。


工業化への挑戦

 イギリスのような工業化こそが富国への道と考え、それに挑んだ国々もあった。

 その際、機械や技術の導入はさほど難しくない。問題は、工業化が旧来のエリート層(領主貴族や農園主)の利害と衝突するという点にある。すなわち、イギリス製品を阻止するために保護関税を設けて世界市場から遠ざかったり、自国のヒト・モノ・カネ・土地を新興の企業家や銀行家へ流したりする必要が生じるのである。こうした条件をクリアしていたのは、革命〜ナポレオン時代に社会変革を経験したフランスぐらいしかなかった。

 その他の国は、多かれ少なかれイギリス経済の影響が及ぶ中で改革を断行しなくてはならなかった。たとえば、ドイツとアメリカでは工業化の芽は出てはいたが、イギリス製品を輸入し(両国で英輸出額の3割)、農作物を輸出する構図から抜け出てはいなかった。こうなると事の成否は政府の力量とやる気にかかってくるが、両国とも政治システムに問題を抱えており一筋縄ではいかなかった。

 そもそも、ドイツには統一政府すら存在しなかった。30あまりの小国の多くは財政規模も市場も小さすぎ、商品は国境をまたぐたびに関税をかけられた。こうした状態が経済の足をひっぱっていることはあきらかで、共通市場の創設は指導者たちのコンセンサスとなった。

 こうして1834年に誕生したのが、軍事強国プロイセンを中心とする「関税同盟」である。ドイツ諸邦間の関税を廃止し域外に共通関税を課すこの枠組みによって、その後20年でイギリス綿製品の輸入は半減する一方、ドイツの綿製品生産量は3.5倍となった。ただしこれを政治的統一につなげるには、オーストリアとフランスの妨害をはね返す必要があった。プロイセンが両国との戦争に勝ち、「ドイツ帝国」をうち立てたのは1871年のことであった。

 アメリカはといえば、19世紀中頃には独立時から領土は3倍、人口は10倍(約3000万)という発展を示していた。広い原野が存在し、人口の多くが小作人ではなく開拓農民になったことから国内市場の購買力は旺盛だった。北部諸州を中心とする製造業は機械化をバネに人手不足を克服していた。

 問題は、南部諸州の存在であった。この地は、農園主が黒人奴隷(最大で300万に達した)を用いてイギリスへ綿花を売るというかたちで世界経済に組み込まれていたからである。北部諸州が連邦政府を掌握し、奴隷の解放と保護貿易を実現するのは、62万もの死者を出した内戦(1861〜65)を経たのちのことであった。

アメリカ合衆国の拡大と内戦

19世紀前半、合衆国はナポレオンからの大陸中央部購入(1803)や対メキシコ戦争(1846〜48)などを経て太平洋岸まで領土を拡大した。ただし、このことは新領土に奴隷制を導入するか否かをめぐる南北諸州の対立を激化させることになった。奴隷制拡大反対の立場をとるリンカンが1860年に大統領に当選すると、南部諸州は一斉に連邦を離脱、翌年「アメリカ連合」の樹立を宣言した。直後にはじまった南北戦争では、南部連合は当初は善戦したものの、やがて人口・工業力に勝る北部に押されるようになった。1863年のゲティスバーグおよびヴィックスバーグの戦いによって戦争の帰趨は決し、2年後に南部は降伏した。


「大帝国」の運命

 18世紀までユーラシア大陸に君臨していたロシア、オスマン帝国、ムガル帝国といった大帝国も、世界経済のうねりに巻き込まれずにいることはできなかった。

 これらの帝国は、領土の広さ、人口、兵力のいずれでもヨーロッパ諸国を上回っていた。しかし、軍事力によって囲い込んだ領域から官僚制をつうじて富を吸いあげるというシステムが時代遅れであることは明白だった。企業活動は支援されるよりも邪魔され、みずから海外に通商網をひろげることもなく、官民の信頼にもとづく財政・金融制度も生まれなかった。貿易と金融に秀でた企業をつうじて世界の富を集めていたイギリスとは比べるべくもなかった。

 「帝国」システムとしての一大発展期をむかえていたロシアも例外ではなかった。官僚・将校として帝国を支える領主貴族に農民を直接隷属させていたから、購買力のある市場も自由な労働力も生まれようがなかった。さかんだった製鉄業は国際競争にやぶれ、輸出は穀物にかたよる一方だった。一人あたり国民総生産は1830年の段階でイギリスの半分、その30年後には3分の1という有様だった。

 もっとも、ロシアでは皇帝政府の権力が強かったから、工業化へ舵を切ることも不可能ではなかった。実際、19世紀半ばに地中海進出を英仏軍に阻止されて自国の遅れを痛感すると、政府は貴族が握る土地と労働力を自由化し、製造業の育成にも乗りだしている。

 すでに解体しかけていたオスマン帝国の場合、そううまくはいかなかった。ロシアの圧力に抗するためにイギリスの支援を必要とし、そのひきかえに市場を開放しなくてはならなかったのである。「軍と官僚制」を再建しようにもカネがなく、ロンドンをつうじての借金に頼ったが、1876年ついに債務不履行にいたった。以後は欧州人の債権者団体に財政を管理され、まるで債務整理のために生かされているような状態になってしまった。

オスマン帝国の衰退とロシアの拡大

オスマン帝国は17世紀後半にその領土を最大としたが、ウィーン包囲戦に敗れてオーストリアにハンガリーを奪われた。この頃から、軍制改革に成功したロシアもオスマン帝国への攻撃をくり返すようになる。19世紀になると、この方面ではオスマン帝国からの独立をはかるギリシアやエジプト、ロシアの南下を嫌う英仏もからんで複雑な外交が展開された。英仏がオスマン帝国の側に立って参戦したクリミア戦争(1853〜56)ではロシアは一敗地にまみれ、大がかりな国制改革を余儀なくされた。

 これ以上の激変にみまわれたのは、インドであった。2億もの人口を擁しムガル帝国が君臨していたこの地域は、19世紀の中頃にはイギリスの直接支配のもとにおかれていたのである。

 18世紀まで、インドは世界経済の核のひとつであった。人気の熱帯産品(香辛料など)だけでなく、安価な熟練労働力に支えられ抜群の競争力を持つ「綿織物」をも有していたのである。ヨーロッパ諸国はインドで売れる商品を持たず、もっぱらインドの品々を買いつけ欧州や他地域に転売する目的で船を送っていた。


 かつてはイギリスもそうした国のひとつで、1600年にたちあげた国策企業「東インド会社」に貿易を担当させていた。ただ、この会社の業務は順風満帆とはいえなかった。貿易規模は小さい(英全貿易額の6%:18世紀初頭)のに、輸入超過で莫大な金銀を持ち出している(全送金額の70%)という状態に対しては、いつも「富の流出」との批判がつきまとった。インド綿布がイギリスの毛織物・麻織物業を脅かすにいたっては、「このビジネスは本当にイギリスのためになっているのか」という声まで出る始末だった。結局、先述のようにイギリスは綿織物の輸入を制限し、国産化に向かうことになる。

 そんな中、インド情勢に変化がおこった。18世紀前半、ムガル帝国が解体したのである。領土拡張のため戦争を重ね、その負担から「軍と官僚制」が維持できなくなるという、「帝国」にありがちなパターンだった。

 インドが群雄割拠になると、東インド会社は資金・兵力を提供するというかたちで現地の争乱に介入し、利権をあさるようになった。この政策は18世紀中頃、予想以上の成果をあげた。商売敵のフランスを追いだしただけでなく、豊かなベンガル地方から税を徴収する権利をも手に入れたのである。会社はインドで最強の「ラジャ(領主)」に変貌、税収は貿易による利益の数倍にのぼり、ロンドン証券市場では株価が急騰した。

 しかし、幻想はすぐに消えた。言語・宗教・文化が異なるはるか彼方の国を統治するというのは、営利企業にとってまったく割に合わないビジネスだったのである。以後、東インド会社は財政難になると収入源を求めて征服戦争をおこし、また統治コストを増やすという悪循環におちいった。事態を懸念したイギリス政府は会社への統制を強め、1857年に北インドで大反乱がおこったのを機にインドを直接支配することにした。

 政府にとってインドは頭痛の種ではあったが、これを強制的に自由貿易体制へ組み込んだことでイギリスの実業界が潤ったことはまちがいない。工業製品の新たな販路が開けたのはその一例である。綿織物の「本場」だったインドは機械製綿布に席巻され、19世紀中ごろにはイギリス綿織物輸出量の18%を受け入れる市場へと転落した。

 一方で、インドの農業部門は好況にわいていた。小麦・藍・綿花・ジュート(麻の一種)などの世界市場向け輸出が大幅に伸びたためである。とはいえ、貿易黒字のかなりの部分がイギリスに対する経常赤字で相殺されたこと、そして膨大な下層農民が豊かになったわけではないことは、自由貿易体制に組み込まれた他の諸国と同様だった。

 そもそも、換金作物の輸出が急増した背景には、領土拡張にかわる財源をみつけようとする植民地当局の開発・奨励があった。しかしインド統治には巨大な「軍と官僚制」が必要で、そのコストを開発による歳入増だけでまかなうことはできなかった。インド財政は独立採算制とされ、本国財政からの補填はありえなかったから、ロンドン金融街をつうじての起債で財政赤字を埋めるしかなかった。インドは、イギリスに借金しながら統治してもらっているようなかたちになっていたわけである。

 こうしたわけで、インド人の払う税の多くが、イギリス人将校・官僚の給与や年金、イギリスからの資材購入、植民地債の保有者(大部分がイギリス人)への利払いにあてられ、歳出の約3割が「本国費」としてイギリスに送金されていた。これを、インドの人々が「富の流出」とみなしたのは無理からぬことではあった。

イギリスのインド支配

イギリスによるインドでの領土獲得は、18世紀中頃〜19世紀中頃の約1世紀間という長期にわたって行われた。これは、大小の勢力が割拠する中に東インド会社が「プレーヤー」のひとりとして加わり、現地の領主や経済人の協力もとりつけながら、インド人傭兵の兵力を用いてなしとげたものである。貿易商社だった東インド会社が領土支配者に変貌したのは、経営難に加え現地の敵対勢力やフランスとの抗争が頻発する中での 「苦肉の策」だったといえる。つまり、インド支配は政府や経済界が計画的にしくんだわけでもなければ、イギリスの工業化の原因もしくは結果だったわけでもない。ただし、東インド会社がアジアを独占的に管轄する国策企業であり、政府高官や富豪、企業家らが直接・間接の� ��害関係者として名を連ねていたこと、それゆえに会社が利益をあげ送金し配当を出すという重圧下にあったことが、その意志決定を左右したことは間違いない。
なお、インド統治は大反乱(1857〜59)を機に政府に移管された。イギリス領以外の地域は、イギリスに従属する現地領主の土地(藩王国)とされた。しかし、ビルマや西方辺境ではその後も領土拡大が続けられた。


中国へ

 19世紀前半、世界経済とほとんど無縁であるかにみえた大帝国が、中国の清王朝だった。対外的な脅威を排除したため平和が続き、人口は増加して18世紀末には3億に達していた。海外への輸出で外貨を得る必要も、物品を輸入する必要もさほどなかった。欧州諸国との貿易は広州1港に限られ、品目と数量も厳格に管理されていた。

 当初、イギリスは対中国貿易を東インド会社に担当させ、18世紀初頭から中国の茶を輸入させていた。これが上流階級から庶民にまで大人気となり、世紀中頃には会社の総輸入量の4割を占めるにいたった。ただし、初期の対インド貿易と同様、中国に売れるイギリス商品はなかった。そのため代金である銀を一方的に支払うかたちとなり、その調達・送金は重い負担となっていた。

 そこで東インド会社は、インドの物品を中国へ輸出することを考えた。ケシの実からとれる麻薬の「アヘン」である。人間の弱さに訴えるこの商品は見事ヒットした。

 清はアヘン輸入を禁止していたのだが、実効は全くなかった。原因は、民間から富をすいあげて「軍と官僚制」を養うという「帝国」システムそのものにあるといっていい。官僚が縁もゆかりもない土地をまわりながら徴税を請け負う中国ではこうした傾向はことさら強く、富豪からの財産没収も日常茶飯事だった。こうなると、「官」のたかりと「民」のすりよりが経済活動の日常となる。アヘン貿易のような巨利がからむ件で汚職が横行し、禁令が意味をなさなくなるのは自明だった。

 1830年代、清のアヘン輸入量は半世紀前の10倍となり、中毒者は急増、銀はいまや大量に流出するようになった。銀で税を払う農民の負担は増して社会不安がひろがり、中央政府も放ってはおけなくなった。政府内ではアヘンを合法化し茶と物々交換すべし、という意見まで出たが、結局「厳禁」に落ち着いた。1839年、広州に赴任した特命大臣はイギリス商館からすべてのアヘンを没収・焼却した。

 この頃にはアヘン貿易はロンドンを核とする多角決済に組み込まれていたから、イギリス政府が事態を座視できるはずがなかった。そして、最強硬策が選択された。1840年春、陸兵4000・戦闘艦20からなるイギリス軍が中国へ向かった。その中には、蒸気機関で走行する武装商船が4隻含まれていた。

 迎え撃つ清には、海洋国として君臨したかつての中国王朝の面影はなかった。鄭和による南海遠征の成果を放棄した400年前から、中国の海軍は沿岸での海賊退治以上の役割も能力も有したことはなかった。清は長大な海岸線に兵をばらまかざるをえず、逆にイギリス艦隊は自由に攻撃地点を選ぶことができた。そして戦闘となれば、240年前(!)のポルトガル製大砲すら引っぱり出している清軍は大洋の争覇戦に勝ち抜いてきたイギリス軍の敵ではなかった。

 こうなると、たんなる「収奪システム」でしかない清はもろかった。負け戦の連続が内乱の引き金を引くのでは、とおそれはじめたのである。1842年、清はイギリスの軍門に下った。香港島がイギリスに割譲され、5つの港が貿易のために開かれた。戦争のきっかけであるアヘン貿易は黙認された。

 ユーラシアに残された最大の、そして最後の独自経済圏も、ついに門戸をこじあけられた。イギリス海軍に守られた自由貿易網は地球を覆い、文字どおりの「世界経済」が姿をあらわしつつあった。

イギリス帝国と世界貿易路(1860年頃)

19世紀中ごろの「イギリス帝国」は、本国、インド、イギリス系移民からなる植民地(カナダ、オーストリア、ニュージーランドなど)、そして無数の港湾・島嶼からなる。ポルトガル、スペイン、オランダといったかつての海洋・植民地帝国と比較すると、植民地の経済・貿易を統制しなかったこと、貿易の独占をめざさず他国の船を排除しなかったことが特徴としてあげられる。これは、イギリスが工業・貿易・海運・金融のいずれにおいても他国の挑戦を問題としないレベルに達し、それゆえに世界経済の開放性を高めることこそが自国経済の利益にかなう政策であったことを意味している。そのため、清に対して行ったように「自由貿易の強制」といった政策もしばしば用いられてい� �。自由貿易体制に加わることでイギリスの経済的影響下におかれた地域は、「公式」の帝国をはるかに越え世界中に広がっていた。



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